吹田くわいの生態
6、7月頃の初夏、葉のついている茎とは別に、下部から急に花茎が伸びてきて、上方に三つに分岐し、可憐な白い花を咲かせます。芯は黄色※で三弁です。上部が雄花で下部は雌花で上方から花粉を落とし、自家受粉で種子を作ります。緑色の球形の玉が出来、熟してくると茶色に変色し、崩れ散って大量の種子が落下するので、落下する直前に採取すると多量の種子が得られます。※雌花の芯は緑、雄花の芯は黄色で、共に花びらは三弁です。
地下茎は根部から十数本が地下に伸び、秋になるとその先端部がふくらんで塊茎(かいけい)を作ります。一株から10~15個程度の塊茎が収穫できます。その先に角のような芽がつきます。この塊茎と角が、一般にイメージされる吹田くわいです。その姿から「お芽出たい野菜」、地下茎の先に多くの塊茎をつけることから、「子孫繁栄」など、縁起食材として重宝されました。
一般のくわいに比べると、吹田くわいは味がほっくりとして濃く、独特のほろ苦さの中にうまみがあり、「1度食べたら忘れられない味わいがある。」と言われるほどです。 また、栄養学的にも蛋白質、糖質、リン、カルシウム、カリウム等良質の豊富な成分が含まれています。
矢尻型の葉
吹田くわいの塊茎
吹田くわいの花
全体像
吹田の水と吹田くわい
特に田んぼは、吹田くわいにとって、とても育ちやすい場所であったので、たくさん生えていました。吹田市が、まだ吹田村であった頃、吹田の南の地域は神崎川、糸田川、高川などの川に囲まれている上に、千里丘陵の地下水があふれていました。吹田の3名水といわれた「泉殿宮(いづどのぐう)の湧水」「垂水神社の滝」「佐井の清水」などの味の良さ、たくさんの養分を含んだきれいな水が、吹田くわいを育ててくれたのです。(現在、泉殿宮では湧水していません)
泉殿(いづどの)霊泉
佐井の清水
垂水の滝
書物に見る吹田くわいの歴史

「五畿内産物図会」第1巻挿絵(大阪春秋第111号おおさかの伝統野菜より)
吹田くわいの記録が見つかるのは今から300年前の元禄14年(1701年)、岡田渓志の「摂陽群談(せつようぐんだん)」という案内書です。その後、貝原益軒の「大和本草(やまとほんぞう)」、寺島良安の「和漢三才図絵」、小野蘭山の「本草網目啓蒙」、岩崎灌園の「本草図譜」など、著名な本草学者の著書に記載され、「吹田くわいは苦味がなく、甘味があり、栗のような味がする。」と一様に述べられています。
江戸時代の食通としても有名な狂歌師、蜀山人(太田南畝)は、銅座役人として大坂に滞在していた年の体験を江戸に帰ってから思い出として、大坂での一番おいしかった食べものを「思い出る 鱧の骨切りすり流し 吹田くわいに天王寺蕪」と歌っているほどです。
江戸時代後期の歴史家、漢詩人、文人、陽明学者である頼山陽(1780~1832)は、母親の希望で、わざわざ吹田くわいを取り寄せて食べてもらい、喜んでもらったという親孝行の話も残されています。また、豊臣秀吉が伏見城にいた頃、吹田くわいの珍味を聞いて摂津鳥飼産のものを取り寄せ、京都東寺の土居(堀)に植えて栽培したとの記録があり、これが京都の名産として「東寺くわい」と名付けられて現代にまで引き継がれています。
吹田くわいの学術研究

ひとつの茎から雄花と雌花が同時に咲いている吹田くわいの花
吹田くわいは、以前は中国原産の普通くわい(青くわい、白くわい)の一種と考えられていましたが、日本の植物分類学の父と呼ばれた牧野富太郎博士によって、昭和10年(1935年)に発表した論文の中で、吹田くわいに学名を名づけられました。これにより、吹田くわいが昔中国から輸入された一般のくわいの一品種ではなく、オモダカが日本の肥沃な土地で成長進化したもので、吹田原産であることを明確にされました。
和 名 | 学 名 |
---|---|
オモダカ | Sagittaria trifolia L. var typica Makino |
普通くわい | Sagittaria trifolia L. var sinensis(中国に産する) Makino |
吹田くわい | Sagittaria trifolia L. var typica Makino forma Suitensis(吹田に産する) Makino |
昭和40年(1965年)には、当時京都大学農学部教授の阪本寧男氏が、吹田くわいは元々栽培されたものではなく、野生と栽培の中間の、世界でも数種しか発見されていない「半栽培植物」として伝わって来た歴史を持つ大変貴重な植物であることを提唱され、遺伝学研究上、世界的な注目を浴びました。
御所へ献上されていた吹田くわい
この献上行列が街道を行くと、高禄の大名も道を譲ったという程、吹田くわいには権威がありました。この献上行列が、天和3年(1683年)から明治維新迄200年近く続いたのは、その味が最高で素晴らしいものであった証拠といえます。
吹田まつりで再現された献上行列の様子
再現された献上駕籠
献上用の木札 左・裏 右・表
万葉集と吹田くわい
この「ゑぐ」と呼ばれている植物が何であるかは、古来いろんな説が提唱されています。例えばせり、黒ぐわい、オモダカくわい、ゑみくさ等です。この植物である、と断定するには至っていないものの、吹田くわい説が有力な理由として、「吹田は、都に近く、奈良時代からずっと皇室や貴族の荘園があり、天皇の御膳用に様々な野菜を上納しているなど皇室にゆかりがあること」「オモダカから進化し、歴史文化に富んだ日本原産の植物であること。」などをあげて、吹田くわい保存会は、吹田市の千里南公園に万葉集の歌碑を建立しています。
歌 碑
飛鳥の田園風景
飛鳥の菜の花
吹田くわいの保存運動
吹田くわいが吹田の名産であり、貴重な「なにわの伝統野菜」でもあると理解されている市民の方は、最近急速に増えつつあります。しかしこの貴重な植物も、戦後の宅地開発や除草剤の多用によって昭和30年代には「幻の野菜」といわれるまでの絶滅の危機に瀕していました。
もともとお米のような栽培植物ではなく、田んぼの雑草としてはえていたものを、お米の収穫後に副産物として採集していたので、農家の人々にとってはそれ程大切なものとの思いが少なかったのかも知れません。
しかし戦前の小学校の修学旅行で伊勢神宮に詣で、外宮の農産館で吹田くわいの展示を見て、子供心に大切さを印象づけられた方や、正月のお節料理にと自家用に別に栽培されていた方がいらしたことが幸いして、吹田くわいは絶滅から救われたのです。
その後運動が一つにまとまって、昭和60年(1985年)に「吹田くわい保存会」が結成され、以後吹田くわいを「歴史と文化」があり、「学問的な裏づけ」があり、清浄な水質でしか生きられないという 「環境を考えさせる郷土の宝物」として守り、普及のために尽力されています。
桶沓(おけぐつ) 深い湿田に入る木製の長靴(国立民族学博物館所蔵
吹田くわいを掘るくわ(吹田南小学校郷土農具館提供)
吹田くわいの栽培法
種イモ(塊茎)から植え付ける場合
植え付けは3月末から6月のはじめまでが適当な時期です。肥料が直接塊茎に接触していると発芽しにくいため、有機肥料を容器の底に入れ、容器の1/5位迄の土でかき混ぜます。次に土を容器の七分目位まで入れて塊茎の芽を上にして植えます。更に、土で3cm程覆い、深水にならないよう、土から1cm位水を注ぎます。成長するには太陽と水と肥料の三要素が必要です。日当たりの良い場所に置き、水を絶やさないようにします。追肥は8月以降に少し与えます。
夏には白い花が咲きます。10月頃に葉が枯れだしたら水を張る必要はなく土が湿っていれば十分です。12月にはバケツをひっくり返して、土の中からくわいを収穫します。
種子から植え付ける場合
種イモの植え付けと同じ要領で土を準備し、水を加えたときに浮いてこないように上からかける土を多めにして軽く押さえます。植える時期は塊茎より1ヶ月程早くします。古い種子ほど発芽率が低くなるため、新しいものを使用します。発芽するとはじめは普通の細い草状で、10~20cmになると矢尻型に変わります。